ル・クルーゼのグラタン皿

 ル・クルーゼの鍋は高い。憧れているけど買えない。
 でもセールをやっていた。季節商品は安くなるようである。(次の同じ時期になったら、しばらくおなじ物がでてくるらしい。)最初に目に入ったのは、ル・クルーゼぽいらしい仕様の黄色っぽい鍋だったが、その後ろに、いろんなお皿があって、グラタン皿があった。
 我が家にあるグラタン皿は、透明な耐熱ガラス。悪くはないのだが、背の高さが低くて、びろっと薄く広がっているふうなのである。ラザニアを作ったときは、アルミホイルの器を作った。それはそれで良かったのだが。だが、もうちょっと深いお皿も欲しいと、ずっと思っていた。粗雑なのでバッファが欲しいのだ。
 グラタン皿の色はオレンジと緑の二種類があった。少し迷ったけど、オレンジを買った。家で包みを開いても、心うきうきスパーク。かわいくて楽しい。使い心地はまだこれから。
 そもそもオーブンを使った料理に憧れている。しかし、実はどれもカロリーが高いような。

英語教育は高校から

 英語教育は、ネイティブスピーカーをやとえるなら小学校低学年で少し、あとは高校から選択制で良い。大学受験にあるならやらざるをえない。短期間でガツッとたたき込んだほうがいい。だらだら無理矢理みんなにやらせるから、変な発音がすり込まれるし、何よりも英語嫌いの子供が育つ。
 英語はほとんどの人が「要らない」と思っているけど、いつ必要になるかは、誰の人生でもわからない。そのときに、「嫌い」「苦手」があると、邪魔すぎる。
 ネイティブスピーカーを確保できないなら、もう、やらない。あるいは、セサミストリートを見せるだけ。
 高校から英語をはじめても、中学三年間分を余裕でまかなえるはず。週に何時間あったっけなぁ。中学は、地理や地学や気象をもっとやれー。暗記じゃなくてちゃんと教えて。

それくらいのもの自分にも書ける

 小説を読んでいて、そんなふうに思うことはほとんどない。
 話題になっているブログやネタサイトの記事を見ると、それくらいのもの自分にも書けるわぁと、思っているような感じになることはある。何故「感じ」なのかというと、実際に書けるか?、というと、書けないからだ。
 どうして書けないのかというと、どんな程度の内容にせよ、とりあえず読めるような文章にみえるように書くのは、それなりの手間ひま気を使う。それらを使わない自分には、書けない。だから「自分にも書けるんじゃないかと思うわぁ」。
 それにしても、「これは本当におもしろいのか?、役に立つのか?、書いている意味があるのか?」と、けわしい顔になってしまうほど、内容が無かったりつまらなかったり薄かったりする文章はある。若い女性向けの、ちょっとしたお得情報などは、それがはなはだしい。こんなにくだらないものを書いている人は、いったいどんな気持ちなのだろう、と時々考える。しかし、それによって収入を得ている人は、書くことによって収入を得たいという人からすると、一歩踏み出しているので、「えらいなぁ」と思ってしまう。それが自分の書きたいものかというと、違うのは確かだが、書いていることによって対価を得ていることに夢見る乙女のように憧れる。

『夢十夜』を写経

 近頃、頭が回らなさすぎて、でも、書きたい感じがするので、書き写しをする。青空文庫から、適当に。詩はほどほどなら全部、小説は冒頭四百字詰め一枚のみ。夏目漱石の『夢十夜』を書き写し始めたら、おもしろくて、第一夜をぜんぶ書いてみた。
 書いていると、自分の癖がわかる。助詞違う。「に」を「で」と書いてしまう。夏目漱石の文章は、書き写しているだけで、とても幸せになる。比較に、太宰治の『ヴィヨンの妻』の冒頭だけを書いてみた。なかなか癖がある。太宰は作品によって苦手だ。
 宮沢賢治の『雨ニモマケズ』は、意外と楽しい。萩原朔太郎は、読んでいるときと、書き写している時の差は、そんなにない。

 絵を描く練習は、最初は真似だとか、たくさん書くことだと言うけれど、文章もそうなのだろうか。しかし文章の真似をするのはとてもむつかしい。『カフカ』の冒頭を、いろんな小説家風に書くという2ちゃんの伝説的板があるけれど、ああいうのが、とてもじゃないができない。それだけ読んでいる量も、書いている量も、少ないってだけだろうか。

 書き写していて気づいたのは、自分は、小説を読むとき、文章から情景を描いていて、情景で記憶してしまうから、文章をあまりおぼえていないということだ。漫画脳なのかもしれない。しかし、書き写すと、さすがに、言葉寄りになる。エッセイの場合は、言葉や文章で記憶できるけど、小説は描写から情景が描きやすいほど、実際の言葉をおぼえていない。

冬と夏のそうじき

 東京の真夏は、三十五度を超える日も珍しくないので、掃除機をかけるのは大変である。エアコンで冷やしていても、あっという間に汗だくになり、ぽたぽた落ちてくる。危険を感じて、あわてて水を飲む。
 それに対して冬は良い。もちろん、冷たい風をいれる勇気はいるけれど、真夏の汗だくにくらべたら、ずいぶん楽だ。厚着で掃除機をかけていたら、からだも少しあたたまる。
 広い家のひとは、どうするんだろう。掃除機をかけながら、熱中症になりそうだし、掃除機をかけているあいだに、部屋の空気がキンキンに冷えそうだ。
 北国の人は、どうやって掃除機をかけているのだろうかと、ふと思った。雪がごんごん降るあいだは、窓なんて開けられない、掃除機もかけられないのだろうか。幼い頃は九州で、十代後半から、ずっと東京に住んでいる。関東以北に縁が薄い。親戚が北陸にいるが、訪れるのはたいてい夏だった。冬に行ったこともあるけれど、子供だったので、掃除機のことなんか覚えていない。
 掃除機をかけながら、季節に思いを巡らすことができるようになったのは、つい最近のことだ。