書いたものを客観的に見ると
自分の書いたものを、ファイルを作って、キンドルにおくって読んでみた。
自分が描いたもの以上に、書いた文章を客観的に読むのは難しい。キンドルだと、かなり客観視できる。
ところで「客観的」とは、Macの国語辞典によると
(形動)
個々の主観の恣意(しい)を離れて,普遍妥当性をもっているさま。 ↔主観的
なのですね…。
普遍妥当性とはなんぞや?。
「他人が書いたもののように、なるべく、『こう書いたつもりなんだから、こうだろう』という思い込みをすてて」な程度の意味である。
客観的に読めて、分かったことがある。自分の書いているものが、まるっきりおもしろく無くて全然楽しくなくて、へたくそとかそれ以前のしろものだということだ。
何を言いたいか、ではなく、まずは読んでいるときに楽しくあらねばならない、と自分は思った。
漫画のエヴァンゲリオンの最終巻
漫画のエヴァは、セールのときにキンドルでまとめ買いしたので、最終巻もキンドルで読んだ。新旧アニメからえんえん、あれこれしていたものが、きれいにまとまって着地した印象である。
かつ、読後感がとても暖かい感じがする。アニメのストーリーや構図を踏まえつつ、アニメでは説明不足もとい、説明していない部分について、描かれていたり、キャラクターの描き方も、全体的に人間味がある。
私は好きだ。
人は人と接するが故に、傷ついたり、心を閉ざしたり、ずっと閉じこもっていたいと思う。実際にそうすることもある。でもエヴァという作品全体で描かれているように、世界にはたくさんの面白い人がいて、面白い謎の出来事がある。世界はけっきょくおもしろい。エヴァという作品を読んでいる時点で、世界は捨てたものじゃないということを、すでに体験してしまっている。
エヴァでは、何組もの、男女やその他の、愛情の姿が描かれている。うまくできてるもんだ。そういうものに、閉じこもっていても、閉じこもっているが故に、若人は世界に憧れるのだ。
街は白く冷たくて暖かい。世界はつらくて、おもしろい。君には、あなたには、未来がある、歩いていける。すすんでいける。破滅的な感情にうめつくされているようで、前を向いてあるいていく。ネガティブでポジティブ。だいたいそんな感じ。
映画『インターステラー』宇宙の旅
三時間の行きて帰りし宇宙の旅。観ている間はウソみたいに時間が気にならなかったが、終わったときには、本当に自分が宇宙と時間のずっと遠くへ行って帰ってきたような感覚がどっと押し寄せた。こんな体験ができることは、なかなか無い。
公開前、映画館に行くたびに、親子の絆と壮大な哲学的な雰囲気をおしつけてくるうっとうしい予告編に、「ぜったいつまらない映画だ」と三度ぐらい思っていたが。公開が近づいてくると、大絶賛過ぎる嵐。良すぎる、好評すぎる。ここまでじゃぁ、SF好きの端っこにぶら下がっているものとしては、観ないではいられない。
おもいきって、朝の一〇時二〇分の回のチケットを押さえ、ふうふうと早起きしてでかける。乗り継ぎがよくて意外と余裕をもって到着。次々とやってくるお客さんは、三十代以上の男女が多い。男女はやや男性が多いかなと思ったけど、半々ぐらいだったかも。
映画がはじまってすぐのとあるところで、「あぁこれはおもしろい映画だわ」とテンションがあがって、そのあとは、もうずっと宇宙の旅をしていた。なんといっても、余計な説明無用でさくさく進むのがたまらなく良い。映像はもちろん味わい深く美しい。色味がなんとも言えず暖かい感じがする。
帰りには別冊ニュートンを買った。相対性理論とか、時間とか重力とか。ニワカだ。人はいくつもの扉がある。扉をぱぱぱぱぱん!と、次々に開け放していくような、そんな映画。