温泉でショートする

 小説家が缶詰になるので有名だったという旅館へ来た。首都圏から近い温泉郷の奥で、高級旅館の部類に入る。湯葉料理が有名らしいが、予算オーバーなので、オプションは断念した。
 宿は小さな温泉郷のなかでも端っこの端っこで、バスを降りて歩くと、年配の男性が二人が出迎えてくれた。無愛想ではないが愛想が良いわけでもなく、荷物を運んでくれる。案内された部屋は、和室がふたつある。古いけど広い。部屋で説明してくれたのは女の人で、二つある露天風呂は他の人が使っていなければ自由につかえるとか、大浴場夜に男女が入れ替わるとか、お夕飯はいつにしますか、など説明をしてくれた。シーズンオフだったこともあり、こちらも大人の一人なので、世間話などもせずさっと部屋をでていった。有り難いことだ。
 部屋には窓に面した廊下もある。廊下には、椅子とテーブルもあるけれど、古びた大きくないソファもある。そこでのんびり外でも眺めよというのだろう。お風呂場も広い。部屋の風呂も、ぜんぶ温泉がでるらしい。ひととおり部屋を見て回ると、浴衣に着替えた。急須で茶を入れて、菓子を食った。温泉宿にきたら、水分とカロリー補給をしてから、温泉に行くのがマナーである。
 露天風呂は入り口がふたつ並んでいた。両方とも開いている。中へ入り、鍵を閉めれば、使用中の合図。他に何組客がいるのかわからないが、露天風呂の予約もいらないということは、よほど少ないわけである。
 露天風呂は小さいが、ひとり、ふたりにはちょうどいい。最初なので、外でからだをあらって入った。視界は緑である。まだ陽が高いので、下の道路を行き交う人がいるはずだが、車の音がたまにするくらいだ。人の声はしない。緑はしけっている。山深さゆえの湿り気だ。
 ひとっ風呂浴びたあとは、何をしようか。思い出したら頭が真っ白になった。
 とくにすることはない、予定はない。

『好きなアイスは?』


 行きつけのバーがある。どれくらいの頻度で何度その場所を訪れたら「行きつけ」と言えるのか、その言葉を知った頃くらいから、塩梅がわからないけれど、それはチェーン店の店だけれど、行きつけといっていいだろう。なぜなら店員が顔を覚えるからだ。顔を覚えるけど、親しくはない。もしかして覚えているようにふるまっているだけだろうか。そういうわけではないらしい。
「こんばんは」
「いらっしゃいませ」
 落ち着いた声と物腰だが、年齢は自分より年下だ。自分がもういい年なのだ。松原さんはにっこりと、毎度切れ味のいいほほ笑みを見せる。今日はカティーサークにしようと決めていた。ひとくち味わうと、やっと周囲が目に入ってきた。少し気が高ぶっていた。大きなへまをやらかしたとか、けんかしたわけじゃないけれど。
 白い物体だ。同じカウンターの、五つ向こうの席の客の前に、小さく白く丸いものがひかっている。なんだろう。女性のひとり客だから、よけいにしげしげ見るわけにはいかない。彼女は、スプーンで器からそれをすくって食べた。アイス、バニラアイスなのか。
 挙動不審をみてとった松原さんが、くりっとしたまなざしをこちらにむける。こちらが声を発しようと息を微かに吸うあいだに、さっと距離をつめてきた。
「アイスなんてあった?」
「ご用意しております」
 こともなげに、にっこり。ドリンクメニューはながめることがあっても、フードはいつも真剣にみていない。特製の燻製チーズを店員にすすめられるのも、最初だけ。気楽で常連ぽいけれど、さみしいところもある身勝手さ。
「そうなんだ」
 生返事をしながら、もう一度、バニラアイスのほうをみたくなった。かろうじてごまかした。
「バニラかな」
「バニラアイスです」
 松原さんが、ご用意しましょうかスイッチがはいったようにみえて、あわてていった。
「いや、いいから。すいません」
「いつでもおっしゃって下さい」
 にっこり笑って、距離をとる。すました顔で。
 アイスそのものか、バニラアイスが入っている器か、スポットライトをきらりと反射したスプーンか、彼女が気になっているのか。気にしていないふりをして、琥珀の液体に集中しようとするが。カティーサークには申し訳ない。バニラアイスとウィスキーなんて、天使の導きであり、悪魔のささやきだ。いざバーへきてバニラアイスを注文するのは、なかなか不思議な勇気がいる。こういう店なら、リッチなアイスを用意しているはず。
 彼女は絶妙な間隔で、スプーンでバニラアイスを運んでいる。その気配がする。横目でも見ないようにしているのに、見えてしまう。左頬に左手をあて、文庫本を取り出したが、暗くてあまり読めない。店内は基本的には暗くて、ところどころに手元にスポットライトがあたる席があるが、ここはそうではない。軽く飲んだらすぐ帰るつもりだったし、ここではあまり読書はしない。しょうがなく、文庫本を伏せておく。スマホをとりだしてツイッターでもみていいが、ここではなるべくそれをしたくない。ペンとメモ帳をとりだしてへたくそなネコの落書きでもするか。松原さんをつかまえて、ちょっとしゃべるか。今日もミーティング続きで、たくさんしゃべって、成果はあるけど、ときどき変な気もするんだ。本当にこんなに時間をさいて話して書いて意味があるのかな、なんて。ははははは。否。頭の中で懸案事項について整理整頓するか。いまはそれはいちばん無意味な提案だ。できるわけがない。しかたなく、ゆっくりと息を吐く。小さいキャンドルの炎を見つめる。瞑想かな、迷走かな。
 どうしてこんなにアイスのことが気になるのだろう。彼女にひかれているのか? アイスにかこつけて彼女をみたいのか、彼女にかこつけてアイスをみたいのか。アイスを見たい? おかしいじゃないか。何に向かって何を考えているんだ? ひとり百面相をすれば、すぐに松原さんに見つけられる。いやきっと、もうおかしいことはわかっているだろうけど、声をかけるほどのことではないと、防犯上ジャッジしているだけのことだ。
 平静を装いながら、ひとりですったもんだしたあげく、彼女よりも先にチェックを頼んだ。
「こんな日もあるんだよ」
 松原さんが不思議そうな顔をする前に、いや、きっとそんな顔はしないだろうけど、言い訳のようにいった。
 家の近所のコンビニエンスストアで、何食わぬ顔でバニラアイスクリームを買った。きっと店でだしているような高級アイスとはちがうだろう。くるりときれいに丸くえぐり出して、よく冷えた器にのせられたものとは違うだろう。それをたべるのは、きれいなアイスクリーム用スプーンではないだろう。それでいいのだ、それで。
 風呂上がりに、ようやく、アイスの紙の蓋をあけ、シールの蓋をはがしたとき、安心感と虚脱感が同時に襲ってきた。それといっしょに、冷たいバニラアイスをがつがつとしみじみと味わった。



(2000文字ぐらい)

『好きなアイス』

「近所のまいばすけっとに、ブルーシールが売ってたんだよ」
 何をトリガーに思い出したのか、唐突に翔太はいった。パカっとひらいたような笑顔だ。今日のビールは三杯目だが。暑い日で外の席で、すぐぬるくなるからと、ぐいぐい飲んでいた。かなりいいかんじに酔っぱらっている。
「それが、」上機嫌で言葉を続ける。「ハーゲンダッツより高い値段で売っていたんだよ」
「へえーー?」
「二十円くらい高い」
「そんなに高級なアイスだった?」
「わかんない」
 確かに値段を覚えていない。旅先では少々おおらかになるもので、よほどぼったくりだと思わないかぎり、記憶に刻み込めない。
「買ったの?」
「買ってない。あずきバーだよ、暑いし」
 暑いときにはあずきバーだ。という主張はよくわからないが。
「ちがう、白くまだ。白くま買った。帰ったら食べなきゃ」
 その店頭に並ぶのは、夏場だけらしい。
「でもいまは、ブルーシールたべたい」
「買わなかったのに?」
 今日はもう潮時だろうか。怪訝そうな顔をしていると、翔太はスマートフォンをごいごい操作して、お目当てをみつけ、ドヤ顔で画面をみせてきた。今飲んでいる店のすぐ近くに、ブルーシールのお店がある。てきとうに入った店だが、はじめからねらっていたのだろうか。
 飲み屋を切り上げて、ぐるっと裏手に回るように歩いていくと、すぐブルーシールの店舗があった。カップのアイスを買って、店内ではなく、また店の外の席で食べようと、彼は提案してきた。
 翔太は、毒々しい色だけど、沖縄の青い海と、青い空にうかぶ白い雲を思い出さないでもないブルーウェーブをほおばって、これだよこれと喜んでいる。しかし少しだけ声のトーンをさげていった。
「いまの店員、テンション低かったな」
「自分が酔っぱらってるから、そうみえるんじゃないの」
「だってアイスクリームの店だよ、ブルーシールなんだからさ、もっとコンニチワ!、とか、イラッシャイマセ!、とか明るい感じで言ってもよさそう」
 沖縄のブルーシールの店員はどうだっただろうか。国際通りはとにかく暑くて、笑顔ではあったが、さほどハイテンションではなかった。あの暑さでは、みんなぼんやり笑顔になるのもしょうがない。そもそもたいていどこもかしこもまったりしている。それが生きる知恵なのだ。思い返しているあいだに、翔太は勝手にパインソルベを食べていた。先ほどどうでもいい不満を口にしていたが、もうどうでもいいようである。


(1000文字ぐらい)

ゴジラはあさってここに来る

 ぼくは知らなかったけれど
 ゴジラはあさってここにくる
 みんなは知っていたらしいけど
 特に何をしようともしない
 逃げるとか騒ぐとかやけくそになるとか
 ぼくはいてもたってもたまらなくて外にとびだして
 いつもとかわりない街の様子に戸惑った
 バギーをおすヤンキーのお母さん
 買い物カートをおすがくがく震えたおばあちゃん
 子どもとポケモンGOをやりにきたおっさん
 けだるげに寝そべる猫のそばから動かないメガネのおばさん
 そうだ猫だって散歩している
 騒がしい空気の気配もない
 もしかしてゴジラがくるのはガセなのかな
 おまわりさんにきいて確かめてみようか
 一番近い交番はどこだろう?
 駅まで行く?
 こっちは忙しいんだって、怒られやしないかな
 どうする? どうしようか、どっちへいこうか、何をしようか……
 考えているうちに、自然と駅のほうへ歩いていて、店の扉をあけた
「いらっしゃいませー」
 パブと名を冠しているくせに居酒屋みたいな出迎えかたをする
 しょうがないからカウンターで一パイントビールをかって
 とりあえず席に座って
 まだ人もまばらな明るい時間帯から僕はビールをのんだ
 まだ時間はある
 まず落ち着いて、いまからできること、明日できることを考えよう
 ゴジラはくるのはあさってだ