又吉のインタビューを読んで背筋が

 今週のお題「ゾクッとする話」

『火花』を読んで、自然と作者の記事やインタビューが目に入るようになってしまった。気軽に斜め読みして、ゾクッと背中が寒くなる。又吉が幽霊みたいで怖いから、ではない。自分は彼より五つぐらい年上だが、何も、なあんにも積み重ねてこなかった。お笑いのために、大好きな小説のために、こつこつと努力を続けてきた彼の生き方に、圧倒されて、自分のからっぽさに寒気がする、めまいがする、気が遠くなる。
 もしかして、四十歳で自覚できたのは、幸せではないのか?、と無理に考えてみる。分からないまま、自分が何かを積み重ねてきたような人間のつもりで生きているのは、ずっとみっともなく、愚かにみえたことだろう。
 しかし自覚ができたからといって、それで自分の何かがかわるわけではない。言動、行動。すべて「何もない」という範囲でしかないわけだから。カラカラと乾いて回る歯車の音も、もう聞き飽きてしまった。
 絶望するほどの何かもない。
 まだ四十だとも言える。たいていのことがこれから始められる。たとえ六十で死んでも、二十年ある。先長い。長すぎる。人生を安易を投げ出すほどのものも、何もない。
 これから何をこつこつ積み上げていけるのか、それとも二十年後に同じようにゾクッとしているのか。前者でいたい。なんでもいいから、薄く貯めてみたい。

『火花』はいつ散るのか

 芥川賞直木賞が発表されて、『火花』と『流』を買って来た。もうひとつの芥川賞受賞作品は、本が出たら買う。冒頭を読んで、どちらがおもしろいかといえば、『流』であるが、『火花』のほうが短いので先に読んでいる。
 三分の一は読み終えた。主人公たちは若く、ギラギラして、飢えている。主人公は、又吉の若い頃のようであり、そうでないようにもみえる。
 ピースは好きである。数えるほどしかみたことないし、最近はネタどころか、二人そろっての仕事もないようだが。楽しそうで愛らしく、ていじらしくてかわいらしい。そんな印象をうけた。お笑いコンビの関係性は、場合によってはブロマンスの一種である。恋人同士にはみえないが、夫婦や家族のように、兄弟のように、離れがたきものであるように。
 閑話休題。文学は読み心地が大切である。難解で何をいっているかさっぱり理解できなくても、おもしろい読み物が世の中にはある。『火花』は目下のところ、一生懸命に若者がとつとつ延々と語っていることを、夜通し同じようなボケとツッコミをくり返すがごとく、じっとずっと耳を傾けているような感覚である。体力がないおばちゃんは、ちょいちょい休憩をいれる必要がある。
 劇的な展開は期待していないが、読んでいるときは、いつ火花が散る展開になるのかな、と期待している安易な消費者としての自分もいる。
 何か起きるのか、何も起きて欲しくないのか。主人公はずっと真夜中の語り部のように語り続けるのか。
 

「好きな服」はアニエスベーだった。

今週のお題「好きな服」
 一時期、アニエスベーにはまっていた。二十代の前半、ほとんどはじめて、自分で稼いだお金で自分の服を買うようになって、買うようになっていた。価格は安くない。だがものすごいデザインでなければ、一度買えば長く着られる。かなり体型が許さなくなってきているが、冬物なら十年以上持っているものもある。立て続けに買った時期に、呼ばれておしゃべりしにいった。
 いったらすごいオシャレなひとばかりで、自分で自分にどんびきしたが。三人ぐらいと、調査会社のおばさんの四人。ホニャラカはどう?、と商品についてきかれたら、かなり適当に好き勝手に言う。それでお礼もとくになかったが、何だか勝手に喜んでいた。
 買わなくなったのは、黒ばかりを着てくるAさんが会社に入ってきたせいだ。アニエスベーはやはり黒が多い。とてもデザイン性が高いけれど、会社に着ていくのには、少し普通の服になる。Aさんは本当にいうつも同じような格好をしていて、黒を着ていた。席が近くなり、同じような色が並んでしまう。そこらへんから、黒を着ること、アニエスベーを着ることはあきらめて、買わなくなった。Aさんが会社を去って、買えるようになったときには、自分がすっかり太っていた。
 アニエスベーはやはり、痩せているほうが似合う。年齢は問わないのだが、ほっそりした女性のほうが似合う。十一号も展開しているが、店員さんには、十一号がぎりぎりで着るつもりかよ、という視線をされる。本当に。自分は九号の体格なので、肉がついたからといって十一号を着てもおかしい。十一号は、身長や骨格がそれにあっている人が着るものなのだ。だから九号が入る体型に戻らないといけない。
 もう一度着られるようになりたいなぁ、とは思うけど、なかなか難しい。時々無理して十一号を買って失敗している。

書き終えること、書き続けることの困難さ

 第一ハードルがまったくクリアできない。一枚も絵を描ききっていない絵描きみたいなものだ。一つの「完」もない。

 最後に書き上げたのはいつだろうか、もう思い出せないくらい前。小説家になりたいとか、そんな寝言をいう以前のところに、ずっと居る。

 遠く遠く。はるか遠く。

『ボタンの店』

 店中びっしりボタンが並んでいる。小さな狭い店のなかで、祖母はお店のおばさんと、しばし世間話をする。
 店の壁は引き出しで埋められて、天井までの隙間には、ボタンの箱が並んでいる。様々な色、形、きらきら。ただし全部ボタン、いま思えば、カラフルポップな色はなかった。全部おばさん向けだった。
 あの頃は、ずいぶん派手に見えたけど。自分で行きたい店に通い始めた頃に、古い店を思い出した。
 あのくすんだ狭い店にくらべて、この店といったら。夢のようなキラキラ、ふわふわ、色や柄のバリエーション、レースのリボン、チェーンもキットも選び放題。うかれて胸はときめいた。作業スペースもある。明るい広い場所で、邪魔されず、熱中できる。
 何度か足を運び、ささやかな散財を繰り返すと、冷静にもなってきた。あそこにはあって、ここにはないものがたくさんある。きっと流通経路が違うのだろう。
 私が好きなものは、欲しいと思うのは、ここに全部あるはずだ。あの古い店に行っても、私が買えるようなものはない。ボタンは安くない。印象に残るボタンは、それなりの値段がする。
 久しぶりに、その店の前を通りかかった。祖母はだいぶ前に亡くなっていた。店のおばあさんは、あの頃と同じ人か分からない。相変わらず店は、天井まで隙間無く、混沌としたボタンに囲まれて、まるで百年たった宝箱のようだが、のぞく時間も勇気もなかった。
 幼い頃の私は、足元から頭のずっと上まで並ぶボタンを、何度も下から上へ見上げていた。祖母とおばさんと、店に居合わせたしらない人たちは、笑ったり、ときには渋い顔をして、おしゃべりしていた。