匿名でも、君はそこにいてほしい。

暑い朝、ツイッターのタイムラインに二つの訃報が流れてきた。両方とも、フォローはしておらず、たまにリツイートでみかけるアカウントだった。ひとつは、本人の近親者という人がアカウントの持ち主の死を告げていた。もうひとつは、肉親ではない近しい人が、死を知らせていた。

後者は、話をみかけた人も多いだろう、熱中症かと思っていたらくも膜下だった。最後のいくつかのツイートは、からだの不調や家族に言われたことだった。ツイートに対する返信も、きづかうものがあった。やるせない気持ちにおそわれた。

前者は、ある界隈では少し知られていて、しかしフォロアーは数百人もいっていなかったから、そこまで有名というわけではない。最後のほうは、かなり炎上しているやりとりをどこかのアカウントと続けていた。そんな騒ぎになっているとは知らなかったし、そこまでアクが強い内容をツイートしていたとは思えない。そもそも規模が小さい(?)アカウントなので、亡くなったとの知らせがあれど、本当かどうかわからない。だが周囲の人たちは、本当だったら悲しい、と困惑と悲しみをにじませていた。

どちらも、本当にその人が亡くなったかどうか、赤の他人にはわからない。リアルに付き合いをしている人がある人は、確かめることができる。だが匿名で、なりきりで、のようなアカウントの場合、死の知らせはひどく曖昧だ。もしかしてその知らせは、アカウントを劇的に終わらせるための手段かもしれない。

そうであってほしいと願う。炎上して追いつめられて、リアルな世界にトラブルを持ち込む前に、ネット上で自分を殺す。それが無傷だとはいえないけれど、本当に死んではいけない。

見知らぬ匿名の、気配を殺した、生身でない存在でも、プログラムのbotでも、発信する元の君はそこにいてほしい。死なずに生きていてほしい。ネットで追いつめられたら、ぜんぶ投げ出してかまわないから。君は生きる場所はそこだ。