『ここまでは寒くここからはあつい』

 からだの半分が寒く、からだの半分があつく。変な具合になって目が覚める。一人の同じからだなのに、上と下でこうもちがう。つやっぽい話ではない。寝られないのでクーラーをつける。冷たい風がふれると、からだがこわばって、タオルケットをずりあげる。だが下半分は汗ばむまま。
 眠いのに寝ようと思うと寝られなくて、スマートフォンに手を伸ばす。手のひらのなかの青い光を、一時間でも二時間でも、SNSを眺めている。そんなことをしているから寝られないのだと、ようやくある日、充電器を遠ざける。別の部屋に。起き出してとりにいくほどではないから。
 代わりに電子書籍リーダーを枕元にもってきたら、マンガも読めるので同じ事だった。一巻、二巻、三巻、四巻。読み尽くせば、数頁で終わるサンプルをダウンロード。それでそれも他の部屋へ。
 枕元に目覚まし時計代わりの古い携帯だけになって、目を覚ましてもすることはなくなった。
 ただ、ここまでは寒く、ここからがあついことだけが、気になる。寝返りをうっても、同じこと。半分寒く半分あつく。じたばたしていても、ある瞬間突然眠気がやってくる。クーラーがきいた。はれぼったい手を押さえ、からだの半分の居心地の悪さを感じつつ、すとんと眠りに落ちる。それで朝まで熟睡なんてうまい話はない。
 寝不足のまま昼間の世界をのろのろ歩く。気になった感覚だけは引きずったまま。夏はまだ続く、秋はまだ遠く、ぶるぶると寒さに震える冬など、想像難しものになる。都合のよいあたま。ただここまでとここからが、冷め切らない頭を占める懸案事項。
 忘れる、遠ざかる、また思い出す。冬は遠く、熱帯夜はこの夜の問題。

『シロというネコ』

 全身真っ白なので「シロ」という名前のネコは、まれに見る凶暴凶悪な猫だった。一緒に住んでいる家族にはなついているようだが、その家に頻繁に出入りする、近所や親戚など、ありとあらゆる人間を、眼光鋭くにらみつけ、もし心地よくなでてもらったとしても、そこからごろにゃあと機嫌良くはならない。ましてや動物に、ネコに不慣れな人間に対しては、何様のつもりだと目もくれないし、憤怒の形相で威嚇してくる。
 里帰りした息子夫婦の布団をどうどうと占拠し、冬は炬燵のなかの王者であり、人が横になれば夏でもお腹に乗ってくる。気まぐれに外へ出ようとする。「こら!」と家人が呼び止めると、足をとめてちらりと振り返る。だがまた歩を進める。片手でスイーと引き戸をあけて、結局でていく。だがすぐに戻ってきて、たいてい家の中でごろごろしている。家族が台所に立つと、何か食い物がもらえるのだと、冷蔵庫のそばにたち、にゃあにゃあと話かける。呼ばれるたびにエサをあげていては、デブネコまっしぐら。節制を強いられると反抗的。
 まだ若い頃は、目の前にちらちらするものがあると、野生の血が騒いでいた。別猫のように、跳ねる、飛びつく。だがずいぶん老いた。毛はぼそぼそとみすぼらしくなり、細くなり、ゴツゴツと骨張った足腰。冷蔵庫の下に立つことはやめないが、そこにとどまることがおおくなったのか、近くにダンボール箱もすえて、くるりとちいさく丸くなる。
 ごろりと寝ていることが多い。動きは緩慢で、まるで白い幽霊のように、じっとどこかをみていたり。だがソファを毛だらけにして、苦情を訴える家族とにゃあにゃあと言い合いもする。頭をなでたらできものでもあったのか、逆上して爪をたてた。肉球はいろあせて、爪があまりひっこんでいない。
 
 

匿名でも、君はそこにいてほしい。

暑い朝、ツイッターのタイムラインに二つの訃報が流れてきた。両方とも、フォローはしておらず、たまにリツイートでみかけるアカウントだった。ひとつは、本人の近親者という人がアカウントの持ち主の死を告げていた。もうひとつは、肉親ではない近しい人が、死を知らせていた。

後者は、話をみかけた人も多いだろう、熱中症かと思っていたらくも膜下だった。最後のいくつかのツイートは、からだの不調や家族に言われたことだった。ツイートに対する返信も、きづかうものがあった。やるせない気持ちにおそわれた。

前者は、ある界隈では少し知られていて、しかしフォロアーは数百人もいっていなかったから、そこまで有名というわけではない。最後のほうは、かなり炎上しているやりとりをどこかのアカウントと続けていた。そんな騒ぎになっているとは知らなかったし、そこまでアクが強い内容をツイートしていたとは思えない。そもそも規模が小さい(?)アカウントなので、亡くなったとの知らせがあれど、本当かどうかわからない。だが周囲の人たちは、本当だったら悲しい、と困惑と悲しみをにじませていた。

どちらも、本当にその人が亡くなったかどうか、赤の他人にはわからない。リアルに付き合いをしている人がある人は、確かめることができる。だが匿名で、なりきりで、のようなアカウントの場合、死の知らせはひどく曖昧だ。もしかしてその知らせは、アカウントを劇的に終わらせるための手段かもしれない。

そうであってほしいと願う。炎上して追いつめられて、リアルな世界にトラブルを持ち込む前に、ネット上で自分を殺す。それが無傷だとはいえないけれど、本当に死んではいけない。

見知らぬ匿名の、気配を殺した、生身でない存在でも、プログラムのbotでも、発信する元の君はそこにいてほしい。死なずに生きていてほしい。ネットで追いつめられたら、ぜんぶ投げ出してかまわないから。君は生きる場所はそこだ。

又吉のインタビューを読んで背筋が

 今週のお題「ゾクッとする話」

『火花』を読んで、自然と作者の記事やインタビューが目に入るようになってしまった。気軽に斜め読みして、ゾクッと背中が寒くなる。又吉が幽霊みたいで怖いから、ではない。自分は彼より五つぐらい年上だが、何も、なあんにも積み重ねてこなかった。お笑いのために、大好きな小説のために、こつこつと努力を続けてきた彼の生き方に、圧倒されて、自分のからっぽさに寒気がする、めまいがする、気が遠くなる。
 もしかして、四十歳で自覚できたのは、幸せではないのか?、と無理に考えてみる。分からないまま、自分が何かを積み重ねてきたような人間のつもりで生きているのは、ずっとみっともなく、愚かにみえたことだろう。
 しかし自覚ができたからといって、それで自分の何かがかわるわけではない。言動、行動。すべて「何もない」という範囲でしかないわけだから。カラカラと乾いて回る歯車の音も、もう聞き飽きてしまった。
 絶望するほどの何かもない。
 まだ四十だとも言える。たいていのことがこれから始められる。たとえ六十で死んでも、二十年ある。先長い。長すぎる。人生を安易を投げ出すほどのものも、何もない。
 これから何をこつこつ積み上げていけるのか、それとも二十年後に同じようにゾクッとしているのか。前者でいたい。なんでもいいから、薄く貯めてみたい。

『火花』はいつ散るのか

 芥川賞直木賞が発表されて、『火花』と『流』を買って来た。もうひとつの芥川賞受賞作品は、本が出たら買う。冒頭を読んで、どちらがおもしろいかといえば、『流』であるが、『火花』のほうが短いので先に読んでいる。
 三分の一は読み終えた。主人公たちは若く、ギラギラして、飢えている。主人公は、又吉の若い頃のようであり、そうでないようにもみえる。
 ピースは好きである。数えるほどしかみたことないし、最近はネタどころか、二人そろっての仕事もないようだが。楽しそうで愛らしく、ていじらしくてかわいらしい。そんな印象をうけた。お笑いコンビの関係性は、場合によってはブロマンスの一種である。恋人同士にはみえないが、夫婦や家族のように、兄弟のように、離れがたきものであるように。
 閑話休題。文学は読み心地が大切である。難解で何をいっているかさっぱり理解できなくても、おもしろい読み物が世の中にはある。『火花』は目下のところ、一生懸命に若者がとつとつ延々と語っていることを、夜通し同じようなボケとツッコミをくり返すがごとく、じっとずっと耳を傾けているような感覚である。体力がないおばちゃんは、ちょいちょい休憩をいれる必要がある。
 劇的な展開は期待していないが、読んでいるときは、いつ火花が散る展開になるのかな、と期待している安易な消費者としての自分もいる。
 何か起きるのか、何も起きて欲しくないのか。主人公はずっと真夜中の語り部のように語り続けるのか。